恐怖の克服と死後の世界
母は月単位で症状が進行しているという自覚があるらしい。
どんどん忘れていくし、思い出しても覚えても追いつかない。
でも絶望はしていないのは、死後の世界を信じているからだ。
私は信じていなくて、それで喧嘩になったこともある。
でも母の落ち着きを見ていると、あぁ宗教はこのためにあるんだなと確信できる。
今はどんどん衰えていっても、死後は一番輝いていた頃に戻って、頭シャキシャキで、夫に会えるんだと。
だから何も怖くない、と。
その気持ちを最期まで持てるなら、彼女の信仰心は価値あるものだ。認知症は心の弱さがダイレクトに出てくる病。
今まで苦労して乗り越えたものが大きかった分、母は本来の自分の強さを発揮して、きっと最期までカッコ良い生き方ができるはずだ。
一方で私は死後の世界を信じてない。お葬式も残された者のためだと思っている。
けど、それでも絶望しない方法はある。自分の尊厳のために生き切ることだ。その姿は残った家族や知人がしっかり見ていてくれるはず。
そして、残された者の心の中で、一番輝いていた頃の私の姿となり、記憶の中に永遠に残っていく。
両者が意味することは同じ。
例え死後の世界がなくても、母自身は気付かない。死後に絶望することはないのだ。
だから、同じことなのだ。
古来から宗教心が人類に絶えなかったのは、生きる苦しみから逃れるためという弱さもあるかも知れないけれど、その段階をもっと超えたところ、諦めずに精一杯生き切り尊厳ある死を迎えるためだと、穏やかに理解した。